大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和57年(ワ)11219号 判決 1986年7月08日

原告 甲野太郎

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 藍谷邦雄

同 吉田健

被告 株式会社ユース

右代表者代表取締役 久松叔男

右訴訟代理人弁護士 飯畑正男

同 津川哲郎

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し各金三〇七四万五一五七円及びこれに対する昭和五七年一月二五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

原告らは、亡甲野一郎(昭和三六年九月二八日生、昭和五七年一月二四日死亡)(以下「一郎」という。)の父母である。なお、一郎には配偶者及び子はいない。

被告は、株式会社読売新聞社の発行する日刊新聞紙及び出版物の販売等を業とする会社である。

2  一郎と被告との関係、一郎の死亡

(一) 一郎は、昭和五五年三月乙山高等学校を卒業したものであるが、同年と翌昭和五六年の二回にわたり大学入学試験に失敗した後、被告の定めたユース読売奨学会規定の適用を受ける予備校奨学生たる被告従業員(新聞配達員)に採用され、上京して被告の経営する小金井市《番地省略》所在の読売新聞丙川サービスセンター(以下「サービスセンター」を「SC」と略称する。)に配属されて新聞配達等の業務に従事し、被告は、この後一郎が死亡するまで同人に対する雇用契約上の使用者たる地位にあった。

(二) ユース読売奨学会規定の内容はおおむね次のとおりである。

(1) 被告は入学時の費用に必要な学費(入学金・授業料)を貸与する。

(2) 奨学生(従業員)が学校の修業課程を終了しかつ配属店が定めた期間(一年間)を終了した時に、入学時に貸与した奨学金の返済義務を免除する。

(3) 次の事項に該当するときは、その時までに貸与した奨学金を直ちに全額返済しなければならない。

(ア) 誓約書に違反し、奨学会を除名処分になったとき。

(イ) 学校を退学、停学又は休学のとき。

(ウ) 奨学会に入会してから一年たたないうちに退職したとき、

休学又は不慮の事故で職を辞する場合については、事情により考慮する。

(三) 一郎は、丙川SC配慮後は、隣接する被告借上げのアパート(小金井市《番地省略》丁原荘)の一室を居室として定められ、丙川SCにおいて朝夕食の支給を受け(その費用は給与から控除)、新聞の配達等の業務に従事しながら、国鉄高田馬場駅近くの一橋学院予備校に通学していた。

(四) 一郎は、昭和五七年一月二三日午後八時三〇分ころから丙川SCで行われた予備校生の受験激励会を兼ねた従業員の誕生会の席上、興奮して自分は今日をもって死んだなどと叫んだ後号泣するといった異常な言動をとった後、しばらく休養して平静な状態に回復したが、翌二四日未明ひそかに外出し、同日午前一一時五〇分、小金井市東町一―五東京都立野川公園内の水深二〇ないし三〇センチメートルの池でうつぶせになって泥の中に倒れた状態で溺死しているのを発見された。右発見時の状況等から、一郎は、同日午前一〇時ころ自殺したものと推定される。

3  被告の債務不履行(安全配慮義務違反)

(一) 雇用契約上の使用者は、その指揮下で勤務する被用者が業務上の災害に遭うことのないように配慮する義務(安全配慮義務)を負う。安全配慮義務の内容は、当該雇用契約の内容、特質に対応して検討されなければならない。

被告と一郎ら予備校生たる配達員との間の雇用契約の特質は、

(ア) 勤務場所と同一若しくは、それに近接した宿舎への入居が強制されること。

(イ) 使用者が同時に被用者に対する債権者であり、その債務の完済を行わなければ所定期間の労働の継続が結果として強制されること。

(ウ) 勤務時間が極めて変則的であること。

(エ) 被用者が若年の青少年のみで構成され、特に一郎の契約において、その年齢に加えて予備校生(即ち受験生)という精神的に極めて不安定であり、周囲の懇切かつ慎重な配慮が期待されるべき者が被用者であること。

である。

一郎と被告との雇用契約は、このような内容を当然の前提として成り立っているものであるから、被告は通常の雇用契約における安全配慮義務にとどまらない、特殊の配慮義務を負っていると解すべきである。このような契約において、使用者は、単に業務そのものに起因する災害のみならず、宿舎での生活の物的、精神的な諸局面について、その安全を配慮すべき義務を負うものである。以下、この見地に立って、被告の安全配慮義務違反の具体的内容を詳説する。

(二) 死亡前夜の経過における安全配慮義務違反

(1) 一郎は、昭和五七年一月二三日夜、丙川SCで行われた誕生会の始まる前「天城山中におん霊の沼を見た!」と題するテレビの霊魂に関する特集番組を夢中になって見ており、誕生会の準備にも加わろうとしなかった。午後八時三〇分ころ、丙川SCの所長である戊田松夫(以下「戊田」という。)と同SC所属の配達員(大学生、専門学校生又は予備校生)の合計一〇名くらいが参加して誕生会が始まってからも、一郎は余り飲食もしないでいたが、午後九時ころ突然「まず皆に謝らなければならない。大学受験は諦めた。一・二・三という数字をよく覚えていてほしい。今日は自分の母の誕生日だ。甲野一郎は今日をもって死んだ。」などと叫んだ後、号泣し始めた。そこで、戊田の指示で、一郎の同僚である横幕毅人(以下「横幕」という。)は二階の自室へ一郎を連れていって休ませたが、一郎はなおも号泣し続けた後、やがて静かになった。その後横幕と入れ替りに様子を見に行った同僚の永尾文人(以下「永尾」という。)に対し、一郎は、「今日は一月二三日で自分は死ぬんだ。」などと訳の分らないことを言っていた。永尾が階下へ戻り、横幕が再度二階へ行くと、一郎は平静に戻っていたが、それ以前の興奮状態における自己の言動について全く記憶がない様子であり、間もなく午後一〇時すぎころ階下へ来て再び誕生会に加わったが、他の者に「自分はおかしいんじゃないか。何か変なことを言ったのか。」などと聞いていた。その後、午後一一時ころ誕生会が散会した後、翌二四日午前二時ころ、一郎は一階事務室にいた戊田に対しても、「僕何か変なことを言いましたか。」と前記のような異常な言動の記憶を全く失っている様子を示していた。

(2) 丙川SCにおける被告の現場責任者である戊田は、一郎の右のような異常な言動を見聞したのであるから、同人の精神状態が正常でないことを察知しあるいは容易に察知することができたはずであって、同人をそのまま放置しておくべきではなく、自分自身で同人の様子を見守り、同僚の配達員に付添いをさせ、又は近くの武蔵野市《番地省略》所在の被告甲田SCにやはり予備校奨学生として勤務している一郎の実弟二郎ほかの近親者に電話連絡をするとかの適切な対策をとるべきであり、かつこのような対策をとれば、その後の一郎の死亡は避けられたものである。

(3) ところが、戊田は、興奮した一郎を横幕が二階へ連れていくのを指示し(ただし、これも横幕からの申出を認めただけである。)、二階から下りてきた横幕、永尾から様子を聞いただけで、他には何らの対策をとらないまま、誕生会の途中で退席して自室へ引っ込み、その後翌日午前二時ころ事務室で一郎と前記のとおり話した後も、また朝食の際一郎が姿を見せなかった後も、全く何らの適切な対策をとらないまま、一郎を一人で放置した。

(4) 戊田の右行為は、被告の安全配慮義務に違反する行為であり、かつ一郎の死亡と因果関係がある。

(三) 死亡前夜以前の経過における安全配慮義務違反

(1) 一郎は、前記のような言動を一月二三日に行う以前から、その精神が不安定となり、失調を来していることを窺わせる言動をしていた。具体的には以下のとおりである。

(ア) 印鑑や、印相への過度の関心を示し、あるいは霊魂の世界に関する関心を示すようになった。

(イ) 一月に入ってから余り話をしなくなった。

(ウ) それまでになかった奇矯な振舞いをするようになった。

(エ) 他人への不信、不満を述べたてるようになった。

これらの行動は、それぞれ、それ自体ではさほどのものには見えないとしても、これらを総合し、かつ受験時期が切迫しつつあるという状況を踏まえれば十分に注意を要する事態に向かいつつあることの徴候であった。しかしこれについても、被告及び滝口は何らの注意も払わなかったのである。

(2) 被告が学生、予備校生の配達員に対してしたカウンセリングというのは、会社本社の人事担当者であり場合によってはこれら従業員の身分、地位を左右できる権限のある人物が行ったものであった。このような人物に、微妙な人間関係や内心の奥を踏まえたカウンセリングなど、本来できるはずがないことは、その性質上明瞭である。

(四) 過酷な労働をさせたことによる安全配慮義務違反

(1) 被告の労働条件は、以下詳説するように、就業規則や法令を無視し、過酷な勤務を強制するものであった。一郎は、その素直な性格から、この被告の要求を自分に対する義務と素直に受け止め、被告の期待に沿うべく努力した結果、勉学の時間、睡眠時間に大きく不足を来し、またこのような勤務体制の結果である人間関係の悪化の中で、精神の余裕を失い、前記のような言動に現れる精神の失調に陥り、本件死亡に至ったのである。

(2) 被告は、丙川SCにおける就業規則(以下「就業規則」という。)を金庫内に秘匿し、従業員らに開示していなかった。これは、労働基準法第一〇六条第一項に反する。

(3) 就業規則上、一郎ら予備校生たる従業員の就業時間は原則として一日につき五時間、終業は午後七時と定められていたにもかかわらず、被告一郎に対し、それを超過する労働をさせていた。すなわち、被告との雇用契約における一郎ら予備校生たる従業員の業務内容は、朝夕刊の配達、広告ビラの折込み、読者PR及び事務処理であり、集金及びセールス(購読者勧誘)は任意業務とされていた。ところが、実際には被告は前記任意業務を含む全業務を予備校生たる配達員にも強要しており、一郎もセールスは昭和五六年九月まで、集金は死亡するころまで続けさせられ、このため一郎は睡眠時間を一日当たり平均約三時間に切り詰めて学習時間を確保せざるをえず、肉体的・精神的疲労が蓄積していた。

(4) 丙川SCでは、配達員の人員不足のため、本来代替要員が配達に当たるべき日曜日においても、本来の配達員が配達をせざるをえない状況にあった。そのため、一郎も昭和五六年九月から一一月までは日曜日の配達を休むことができず、また配達以外にも集金、セールスをせざるをえないため、休日をとることができなかった。

(5) 被告は、一郎に対し超過勤務、休日勤務をさせながら、それに見合う時間外勤務手当を支給していなかった。

(6) 被告は、配達担当区域内の新聞代金の未回収分が一定割合以下でなければ配達員に手当が支給されない、いわゆる「実績給与」の体系を設けることにより、配達員が連日長時間の集金、セールスの業務を行わなければならず、場合によっては自費で立替払を行うことさえせざるをえなくなるような状態にしていた(立替分が未回収に終わり、結局配達員の負担になることも少なくなかった。)。

(7) 丙川SCにおける戊田ら被告側の管理の実態は、極めて不適当なものであった。すなわち、夕刊配達後定時に配達員に夕食をとらせることなく集金、セールスに出かけさせたり、必要数の配達員、代替要員の確保を怠ったり、あるいは戊田が担当すべき朝刊の中継作業(途中の中継地点まで新聞を運搬すること)を怠るなど、甚だ不都合な管理が行われていた。

(8) 右のような劣悪な労働条件、労務管理は丙川SCだけにとどまらず、例えば甲田SCのようにもっと劣悪な事業所さえあった。これは、ただ単にこれらがSCの所長の資質だけの問題ではなく、被告の会社としての体質、経営方針に深く根差した問題であるからであって、これに対し、被告は何らの適切な対策もとらなかった。

(五) 右(二)ないし(四)の被告の安全配慮義務違反の結果、一郎はついに前記のとおり死亡するに至ったものであるから、両者の間には因果関係があり、被告はこれによって生じた後記損害について、賠償の責めに任ずるものである。

4  損害

(一) 一郎の被った損害

(1) 逸失利益 四〇三〇万〇二八六円

(2) 慰謝料 一五〇〇万円

原告らはこれらを二分の一あて相続した。

(二) 原告らの被った損害

葬儀費用 六〇万円

(三) 弁護士費用 五五九万〇〇二八円

原告らは、原告訴訟代理人らに本事件を委任するに際し、その費用及び報酬を右(一)、(二)の損害額の一割とする旨約した。

(四) 合計 六一四九万〇三一四円

5  結論

よって、原告らは被告に対し、債務不履行による損害賠償として、各三〇七四万五一五七円(右4(四)の二分の一)及びこれに対する昭和五七年一月二五日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2(一)ないし(四)の事実は認める。

3(一)  同3(一)は争う。

(二)(1) 同(二)(1)の事実は認める。

(2) 同(2)ないし(4)は争う。

(三)(1) 同(三)(1)のうち、一郎が印鑑や印相への関心を示し、あるいは霊魂の世界に関する関心を示すようになったことは認めるが、その余は不知。

(2) 同(2)は争う。

(四)(1) 同(四)(1)は争う。

(2) 同(2)は争う。

(3) 同(3)のうち、就業規則上予備校生たる従業員の就業時間は原則として一日につき五時間、終業は午後七時と定められていたこと、その業務内容は、朝夕刊の配達、広告ビラの折込み(ただし、既に折って組み合されたものを、新聞紙の中へはさみ込む作業に限る。)、読者PR及び事務処理とされ、集金及びセールスは任意業務とされていたこと、は認めるが、その余は争う。

(4) 同(4)は争う。

(5) 同(5)は争う。

(6) 同(6)のうち、被告がいわゆる「実績給与」の制度を設けていたことは認めるが、その余は争う。

(7) 同(7)は争う。

(8) 同(8)は争う。

(五) 同(五)は争う。

4  同4は争う。本件は債務不履行による損害賠償請求であるところ、原告らと被告の間には直接の契約関係はないから、原告らに生じた固有の損害である葬儀費用について被告に対し損害賠償を求めることはできない。また、弁護士費用についても、債務不履行による損害賠償請求においては、履行遅滞による遅延損害金の請求をなしうるにすぎないから、同様に被告に対し弁護士費用について損害賠償を求めることはできない。

三  被告の主張

被告には、一郎の自殺につき安全配慮義務違反はなく、また原告らが被告の安全配慮義務違反に当たると主張する事実と一郎の自殺の間には相当因果関係がない。以下、それについて原告の主張に沿って詳説する。

1  死亡前夜の経過について

一郎が昭和五七年一月二三日夜丙川SCにおける誕生会の席上で意味不明なことを叫んだり号泣したりしたのは、誕生会が始まってしばらく経過した午後九時すぎから約一時間内外にすぎず、しかもその後半には落着きを取り戻しており、再度階下へ降りて来て誕生会に加わってからは平常と変わりなく、また翌日午前二時すぎころ事務室内で戊田と会ったときも、普段と変わりない様子であった。これに対し、戊田は、一郎が泣き出した際、横幕に一郎の介抱を指示し、階下へ降りて来た横幕から一郎の様子を聞き、次いで永尾に様子を見に行かせてその結果を聞くなどして、状況を把握し、一郎が平常に復したものと判断するに至ったのである。戊田自身が二階へ行って一郎の様子を調べなかったのは、丙川SCの所長である同人が直接接触することによって、かえって一郎が緊張・動揺することを恐れたからである。

以上の状況や経過に鑑みると、戊田や同僚の配達員らの誰にも一郎が自殺することを予見するのは不可能であったのであり、したがって、被告には安全配慮義務違反や過失はなかったものである。なお、原告は一郎の弟らに連絡しなかったことを非難するが、一郎が一時間内外で平静に戻ったことから、連絡するのが果して適当であったか疑問であり、また連絡しても自殺が防止し得たとは限らないから、これをもって被告の責任を問うことはできないと言うべきである。

2  死亡前夜以前の経過について

一郎が印鑑や印相に凝り、あるいは霊界に関心を示していたことは事実であるが、しかしながらそれらが被告の業務上支障がない限り、一郎の私生活上の自由に属し、被告の干渉すべきことではないし、そもそもこれらの事柄についての一郎の態度は決して異常な印象を受けるような程度のものではなかった。また、一郎がいわゆる二浪であり、しかも受験を間近に控えていたことから精神的不安を感じていたことは想像に難くないが、それに対しては被告は担当業務の軽減をもって対処しており、また学生、予備校生の配達員に対しては定期的に被告本社人事担当者によるカウンセリングも行っていた。

右のとおりであるから、死亡前夜以前の経過からも、一郎の自殺について被告の安全配慮義務違反や過失は認められず、また自殺と被告の行為との間の相当因果関係は認められない。

3  被告の労働条件について

原告らは、被告が過酷な労働をさせたことにより、一郎が精神の余裕を失ってその失調を来し、ついに死亡するに至ったというが、そもそも新聞の配達員の業務が未明からの作業を要する厳しいものであることは想像に難くないが、それは全国のどこの新聞販売店でも言えることで、丙川SCにおける一郎の勤務が特別に過酷であったというようなことはないのである。現に、被告は予備校生である一郎の立場に配慮して、丙川SCの近くにアパートを借り上げて居住させるとともに、昭和五六年九月以降、逐次夕刊配達後のミーティング参加を免除し、セールス業務や集金業務をさせないようにするなどして、その負担の軽減に努めていた。丙川SCには、他に八名の大学生又は専門学校生、一名の予備校生たる配達員がいたが、一郎以外の予備校生である茂利勝彦は、ほぼ一郎と同一の労働条件下にあっても何ら異常な行動をすることもなく、他の八名についても同様であり、その他全国的にみても類似した労働条件下にある配達員に自殺が頻発しているというような事実はない。

これを要するに、一郎の自殺について被告に労働条件の面での安全配慮義務違反や過失はなく、また一郎の自殺の原因・動機は丙川SCにおける労働条件と無関係であると言うべきであり、両者の間には相当因果関係はないものである。

四  被告の主張に対する認否

争う。

第三証拠関係《省略》

理由

一  請求の原因1の事実、同2(一)ないし(四)の事実は、争いがない。

二  被告の安全配慮義務違反について

1  請求の原因3(一)のうち、一般に使用者が被用者に対し安全配慮義務を負うことは雇用契約の性質上肯認しうるところであり、またその内容が当該雇用契約の内容、特質に対応して検討されなければならないことも当然である。そこで、以下、このような見地を踏まえ、原告の主張に沿って、被告の安全配慮義務違反の有無について検討することとする。

2  死亡前夜の経過における安全配慮義務違反(請求の原因3(二))について

(一)  請求の原因3(二)(1)の事実(昭和五七年一月二三日夜の一郎の言動)については、争いがない。

(二)  《証拠省略》によれば、昭和五七年一月二三日夜誕生会の席で一郎が突然叫んだり号泣したのに接した戊田は、横幕に一郎を二階へ連れて行って休ませるよう指示し、その後は横幕や永尾から一郎の様子を聞いて心配ないものと判断し、特段の処置をとることもなく、一郎が階下へ降りて来る前の午後九時四〇分ころ腹痛のため自室へ行ってそのまま就寝したこと、翌日午前二時ころ目をさました戊田が誕生会の後片付けの様子を見るため事務室へ行くと、そこに一郎が居合わせ、破れた大学受験の受験票らしいものを貼り合わせていたこと、一郎は普段と変わらない平静な態度であり、戊田に対し「夕べはすみませんでした。僕何か変なことを言いましたか。」と尋ねたので、戊田は「何も変なことは言っていない。誰しもああいうことがあるから気にしないでいい。もうしばらく寝るから、君も寝るように。」と言うと、一郎は、「僕は新聞が来るまで起きています。」などと答えたこと、そこで戊田は自室に戻って就寝し、その後は一郎に会っていないこと、その数時間後朝食の際一郎が姿を見せなかったので、横幕が「甲野君はいいんですか。」と尋ねると、戊田はほっておくように答え、特段何らの処置もとらなかったこと、以上のような事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  右(一)、(二)の事実に基づいて判断する。

戊田は、丙川SCの現場責任者たる所長である(このことは争いがない。)から、被告の安全配慮義務の履行補助者ということができる。しかして、昭和五七年一月二三日夜丙川SCにおける誕生会の席上で当初一郎が示した態度は異常なものであったということができるが、しかしながらそのような興奮状態も一郎が二階へ行って休んでいるうちにしばらくして治まり、普段と変わらない平静な状態に復したのであるから、戊田が一応安心して特段の処置をとらなかったこともあえて非難すべきこととは言えず、まして戊田に一郎が自殺することの予見可能性があったとは認められないというべきである。

もっとも、一郎は興奮が治まった後、興奮状態での言動を記憶していないかのような態度を示しており、そのようなこと自体同人の何らかの精神面の異状の表れと見る余地もあるが、しかしながら、一郎は過去にその晩のような状態に陥ったことはなく、それが初めてであったことから、戊田が、一郎が平静に復したことを重視して一応様子を見るという態度に出たこともあながち不当とは言えないし、また、興奮した一郎の発した言葉の中に、自分の死につながるような内容の言葉があったことは認められるが、しかしながら、その内容及び状況からいって、それから直ちに一郎の自殺の現実的可能性を連想し予見することは甚だ困難であったと言うべきであるから、結局前記認定は左右されない。

これを要するに、本件全証拠によるも、死亡前夜の一郎の言動に対する対応について、滝口ないし被告に安全配慮義務違反があったとは認められないと言うべきで、これは後記3判示の死亡前夜以前の一郎の言動を併せ考慮したとしても同様である。

3  死亡前夜以前の経過における安全配慮義務違反(請求の原因3(三))について

(一)  請求の原因3(三)(1)のうち、一郎が印鑑や印相への関心を示し、あるいは霊魂の世界に関する関心を示すようになったことは、争いがないが、しかしながら、《証拠省略》によれば、それらに対する一郎の関心の程度は常軌を逸するほどの過度のものではなかったと認められる。

また、《証拠省略》によれば、一郎は、昭和五七年一月になってからは余り話をしなくなってきたことが認められ、《証拠省略》によれば、一郎は、死亡の数日前横幕が丙川SC内でぜんざいを作り食べようとして容器を持っていると、飛びかかってきてじゃれるような素振りをし、このため横幕がぜんざいをこぼしたところ、今度は急に謝り出したということがあり、それ以前に一郎がそのような態度をとったことはなかったことが認められ、また《証拠省略》によれば、昭和五七年一月二三日夕方一郎と言葉を交わした際、同人が自分は悩んでいる旨言っていたこと(ただし、その具体的内容については述べなかった。)が認められる。

(二)  右(一)の事実に基づいて判断するのに、これらの事実は、いずれも個別にみればもとより、全部を併せたとしてもさして重大な事柄ではなく、特に証人横幕や同佐藤宏子の証言に係る事柄を一郎の死亡する前戊田が知っていたと認めるに足りる証拠はないから、これらに基づいて戊田が何らかの対応をとらなかったことをもって、被告の安全配慮義務違反と言うことはできないと言うべきである。その他、本件全証拠によるも、死亡前夜以前の一郎の言動に対する対応について、戊田ないし被告に安全配慮義務違反があったと認めることはできない。

4  過酷な労働をさせたことによる安全配慮義務違反(請求の原因3(四))について

(一)  請求の原因3(四)(3)のうち、就業規則上予備校生たる従業員の就業時間は原則として一日につき五時間、終業は午後七時と定められていたこと、その業務内容は、朝夕刊の配達、広告ビラの折込み(ただし、既に折って組み合されたものを、新聞紙の中へはさみ込む作業に限る。)、読者PR及び事務処理とされ、集金及びセールスは任意業務とされていたこと、同(6)のうち、被告がいわゆる「実績給与」の制度を設けていたこと、以上の事実は争いがない。

(二)  右争いのない事実に、《証拠省略》によると、丙川SCでは就業規則の文書は金庫内に保管され、配達員らに十分周知徹底されていたとは言いがたいこと、一郎は昭和五六年九月ころまでは任意業務たるセールスを続けており、また同じく集金については昭和五七年一月まで続けていたこと、このため就業規則所定の労働時間を超過することも少なくなかったこと、日曜日については、本来代替要員が配達に当たるべきであるが、丙川SCでは人員不足のためその確保ができず、一郎も昭和五六年九月から一一月まで日曜日の配達を休むことができなかったこと、これらの平日及び休日の時間外勤務につき、被告は一郎に対し時間外勤務手当を支給していなかったこと、被告の設置したいわゆる実績給与の制度のため、配達員は集金、セールスの業務に長時間従事することを余儀なくされ、場合によっては立替払をすることもあったこと、丙川SCでは、戊田の指示で夕刊配達後に配達員が集金、セールスに出かけ、そのため夕食時間が遅くなることがあったこと、また戊田が本来行うべき朝刊の中継作業(途中の中継地点まで新聞を運搬すること)を行わなかったこともあったこと、以上のような事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

(三)  右(一)、(二)の事実に基づいて判断する。

確かに、右(二)の事実の中には就業規則等に反する事実も含まれており、それによって一郎が肉体的・精神的な疲労を来して学習時間が制約を受け、これに同人がいわゆる二浪であることや、上京して間もなく東京での生活に不慣れなこと、受験の日が段々迫って来たことなどと相まって、昭和五七年一月の段階では相当に心理的な不安やあせりを感じていたことは一応推定することができる。

しかしながら、前認定のような丙川SCにおける労働条件から一郎の自殺が通常生じうる結果であるといえないことはもちろんであるし、右のような労働条件の結果一郎が自殺に至ることを、戊田その他の被告側の責任者が予見していたことは認められず、また相当の注意義務を尽くしたとしても予見することができたとは認められないと言うべきである。

これを要するに、本件全証拠によるも、丙川SCにおける労働条件と一郎の死亡(自殺)との間に相当因果関係があるとは認められない。

5  まとめ

右のとおりであるから、戊田ないし被告には、一郎の死亡との間に相当因果関係のある安全配慮義務違反があるとは認められない。

三  以上の次第で、その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 西尾進)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例